再録:月影、さやかに

月影さやかに 

 

 

 

出会いは満月が昇る頃だった。

 

太陽が沈むのを待っていたかのように、ゆっくりと空に昇っていく、まるい月はやわらかな光を湛え、どこか幻想的にも思える。

そんな銀色の光の射す中で、空を仰ぎ見ることもなく、少年は佇んでいた。

 

彼くらいの歳の子供なら、もう家に帰って暖かい食事を前に顔を綻ばせているはずの時間だろう。だが、今の少年には帰るべき家も、暖かい食事も、縁の無いもので。薄汚れたその顔には、幸せなど程遠いような冷たく鋭い瞳が光を湛えていた。

道行く人や、店頭に並べられた商品を素早くその目で吟味する姿には年相応のいたいけな子供の影は無く、まるで、獲物に狙いを定める猛禽類を思わせる。

 

少年は生きるために、必死だった。

自分以外の人間など、どうでもよかった。

 

 

 

+++

 

彼がその日の狩りを終え、僅かな獲物を手に、少年の拠点である秘密基地へと足を運ぼうとしていると、ふいに彼の耳にも何度か覚えのある不快な怒声が辺りに響く。まさか、と思わず振り返った瞬間、「それ」は彼の目に飛び込んできた。

 

月の光に煌めく、紅色の髪。

さしも珍しくないはずのその色は、しかし、銀の光に縁取られて何処か少年の身なりにそぐわない高貴さを内包していた。

 

小さな身体で人混みを駆け抜けていくその手には、小さな一つの林檎が握られていて。    

先程の怒声の原因がなんであるか一目で合点がいく――この辺りでは珍しくもない、小さな同業者。しかし追われる者にしてはあまりにも動きがぎこちない。このままでは捕らえられるのも時間の問題だろう。

 

捕らえられた者がどんな目に遭うのか、彼は良く知っていた。

何度、目にしたかも分からない。

何度、見捨てたかも分からない。

それが、彼が今、たった一人でいる理由なのだから。

 

けれど――

 

「おい赤毛!そこ曲がれ!」

 

気付いたら、口はそんなことを叫んでいて、足は少年のほうへ駆け出していた。

 

彼にとっては既に走り慣れた街だ。どの道どの路地が何処に通じているか、全て頭の中にある。先回りして右へ左へと指示を出し、途中で合流すると、彼らはその二つの小さな身体を下水道へと滑り込ませた。

 

 

 

+++

 

「ったく!危なっかしい真似しやがって」

 

地下の、暗く嫌なにおいのする下水道に身を潜め、追跡者の足音を遠くに聞く。

もう大丈夫だろうと判断した銀髪の少年の口から出た言葉は、ほのかに弛緩した怒鳴り声だった。その声に赤髪の少年は、ぴくり、と小さく肩を震わせて俯き、黙って小さな林檎を握る手に力を込める。

幼い白い手にすらすっぽりと収まるような未熟な果実。それすらも命懸けで罪を犯さねば少年達には手に入れることすら出来ないのだ。

この街の不条理には反吐が出る。

俺達が一体何をしたというんだろう。

震えながらも、けして落とすまいと大切そうに愛おしそうに林檎を握りしめるその小さな手の一体どこが罪に汚れているというのだろうか。少年は何も言えなくなって、その場にそっと腰を降ろした。

 

「……なあ、赤毛。俺と組まないか」

 

暫しの沈黙の後、銀髪の少年が発した言葉は、それまで自ら他人を遠ざけてきた彼の姿からは想像もつかないようなもので。彼自身、自分の言葉に少々戸惑っているようにも見えた。

 

彼にも以前は仲間がいた。そのほうが人を騙し盗みを働くにあたっても都合が良く、なによりいたいけな少年には重すぎる孤独を紛らわすことが出来たのだから。

だが、彼は、これ以上、目の前で仲間が為す術もなく捕えられ、法の無いこの街で彼らが酷い目に遭わされることが耐えられなかったのだ。そして、そんな仲間を、助けることも出来ず、ただ物陰から見ていることしか出来ない己が許せなかった。

 

そんな彼がどうして、今、出会ったばかりの少年にそのようなことを言ったのか、それは本人にすら定かでは無い。ただ、初めて少年を見た瞬間に、他の他人とは違うやわらかな何かを感じたのは確かだった。

 

「どうする?俺と一緒にこの底辺の世界を生きないか?」

気味に響く再度の問い。その言葉に赤毛の少年は勢いよく顔を上げ、目を見開く。 どうしよう、と少し巡したようだったが、目の前の少年と目が合うとゆっくりと首を縦に振った。その瞬間、林檎を握りしめていた手が、一回り大きく暖かな手に少々乱暴に包まれ、ぶんぶんと上下に振り回される。

「ありがとな!」

随分と久方ぶりに聞いたその言葉の温かさが、じんわりと胸に広がるのを感じながら、赤毛の少年はぎこちなく僅かに微笑む。一体何日ぶりの笑顔だろう、まだ笑い方を覚えていて良かった、と、なんだかほっとした。

名前すらもまだ知らないうちから、二人は心の中の深いところで共鳴しあっているような、なにかを朧げに感じ取っていたのかもしれない。

この時だけは、彼らの表情はその瞳は、年相応のいたいけな少年達のものと同じように、やわらかく暖かに彩られていた。

 

「あ、そういやまだ自己紹介してなかったな。俺はボリス!ボリス・クズネツォーフだ」

「ボリス……」

すっかり今まで自らの名前の話など忘れていたのだろう、ふと思い立ったように彼が口にした名前をもう一人の少年は、目を伏せ、ゆっくりと反芻し大切そうに噛み締める。一体何人の名前をその口は紡いできたのか、その姿は何処か切なげでもあった。

「お前は?……名前あるか?」

僅かに俯いたままで顔をあげずにいた少年に、ボリスはそっと声をかける。

この街で彼らと同じような生活をしている者達の中には、自らの名前すら知らない者も稀にだが、いるのだ。まだ、ものごころすらつかぬうちに捨てられ、親も誕生日も名前も分からないままに、ただ、己の本能だけに頼って生きてきた悲しい子供達。ボリスは、先程から殆ど言葉を発しない、この少年がそうでないことを、少しでも他者からの愛を知っていることを、ただ祈っていた。

 

「…………ユーリ……」

少年はゆっくりと顔を上げると、小さく口を動かした後、か細いけれど確かな声で、この地ではさして珍しくない名前を紡ぐ。

それはたった一単語に過ぎないが、未だ幼き彼が、確かに望まれて生まれてきた証だった。

「ユーリか……、なんかイメージ通りっつーか……良い名前だな。ま、これからよろしく!」

彼らの境遇にはまるでそぐわないような屈託の無い笑顔でボリスに手を差し延べられ、ユーリは痛くも悲しくも無いのに目頭が熱くなる不思議な感覚に戸惑いながらも、林檎を片手に、そっともう片方の手でその手を握りしめる。

その手は、なぜだかとても、あたたかかった。

 

 

 

+++

 

それからというもの、彼ら二人は共に盗みを働くようになった。

待ち合わせはいつも日が沈む頃、あの下水道で。

彼らはお互いに励ましあい、献身的に協力しあって、苦しい日々をどうにか生きていた。

ものを盗ることに罪悪感が無かったわけではない。だが、死にたくない一心で彼らは穢れることのないままに罪を重ねていく。

 

パンを盗った、魚を盗った、野菜も肉も果物も、ユーリの父の命令通り酒も盗った。

あれは、いつだったか、二人が出会ってからまだ間もない頃、父からの理不尽な暴力に幾度も傷付きながらも言いなりになっているユーリを見かねたボリスは、何故そこまでしてあんな最低な男の為に尽くすのか、とユーリに問うたことがあった。しかし、ユーリはその問いに、ただ、

「父さんだから……」

と答えただけで。あまりにも気丈な答えを前に、ボリスはそれ以上何も言うことが出来なかった。

ただ、ユーリを傷付ける者への、ぶつけようのない憤りだけが彼の中で静かに、強く大きく渦巻きはじめていた。

 

 

 

+++

 

そんなある日、卵を盗もうとした時だった。

運の悪いことに僅かな食料すらも手に入らない日々が続き、少しずつだが彼らは確実に衰弱し始めていた。栄養価の高い卵さえあればきっと――、少年は僅かな明日への希望にそんなことを考えたのだろう。

だが、進んで囮役を買って出たユーリも、その足取りは覚束ないもので。それでも、彼らには手段を選ぶことすら出来なかった。

 

街に細かく張り巡らされた路地の一本一本までも把握し、入念に二人で打ち合わせをした上で彼らは狩りに赴く。いつもなら逃げ切れる、でっぷりと肥えた身体で下卑た顔で笑う大人達などに捕まるわけがない、その筈だった。

 

しかし、弱った身体は思うように動かず、逃げている最中で足がもつれ、ユーリは為す術も無く地に臥す。容赦無くその身体に向かって振りされた太い腕に、万事休すかと思った時だった。突如、反対方向に逃げていた筈のボリスがユーリの目の前に飛び出してくる。一瞬遅れて響く、鈍い音。何が起きたか分からないままユーリは、ボリスの声と袖を引かれる感覚に導かれ、ただひたすらに走った。

 

「大丈夫か……ユーリ……!」

「……っ……あ、ああ……」

気付けば追っ手の姿は無く、どうにか逃げ切れた、と二人は安堵の息をつき、その場にへたりこむ。だが、その時ユーリは、ボリスの片方の足が青黒く変色し、酷く腫れていることに気付いた。先程、ユーリを庇った際に怪我をしたのだろう。

「ボリス……その怪我……っ!」

ユーリが思わず叫ぶと、ボリスは、へらりと笑顔を作って

「はは……、こんなの、たいしたことねぇから気にすんな。お前のせいじゃねぇよ」

と、気丈に振る舞ってみせた。だが、その姿はあまりにも痛々しく、見るに堪えなくて。

盗ってきた筈の卵も、先程の衝撃ですべて割れてしまったらしく、ボリスのぼろぼろになったズボンのポケットの辺りに染みとしてその痕跡を僅かに残しているだけだった。

 

申し訳なさそうに目を伏せ、謝りつづけるユーリの肩に手を置いて、根拠の無い言葉で励ましながらも、ボリスは限界を感じていた。

足の怪我は、見かけこそ酷いがどうやら単なる打撲らしく、数日もすれば治るだろう。だが、その数日を生き抜くための力が彼らには無かった。

盗みだけで生きていくには限界がある。少年は、空の下で地の上で、ただ、無力だった。

 

 

 

+++

 

次の日、日が暮れてからいつまで経っても、ユーリは姿を現さなかった。

心配になったボリスは、ユーリを探しに行こうとしたのだが、今の彼には歩くことすら  やっとの状態で。それでも、もしかしたら、という思いを捨てきれずにどうにか辺りを歩き回っていると、数百メートル程進んだ路地の中で足に激痛が走り、思わずその場に膝をつく。

ふと、空を見上げると満月がやわらかな銀の光を湛えながら淑やかに輝いていて、まるでユーリと出会ったあの日の空のようだった。

 

どうして、俺達ばかりこんな思いをしなければいけないのだろう。

もう、ボリスは疲労と空腹の限界だった。が重く身体が言うことを聞かない。

抗うことの出来ない眠気に身体を委ね、冷たい地面で横になると間もなく彼はその場で深い眠りに落ちていった。

 

 

 

+++

 

どれくらい眠ったのだろうか、ふと、身体になにかが触れたような気がしてボリスはゆっくりと目を開く。

焦点の合わない視界に映ったのは、まだ薄暗い明け方の空と、見覚えのある赤い髪。ボリスを探してここまで来たのだろうか、彼が目を開けたのを見てユーリは小さく安堵の息を吐いた。

 

ゆっくりと首を動かし、それが誰であるかを確認すると、ボリスは途端に覚醒した意識とともに飛び起きる。足が痛んだがそんなことはどうでもよかった。

 

「よかった……、お前が無事で、よかった……!」

 

言いたいことは他にも沢山あるはずなのに、今はただ、その言葉しか出てこなかった。

それ以上何も言えずボリスは思わずユーリの細い身体を抱きしめる。だが、その瞬間、ユーリはボリスの腕を強い力で振り払うと数歩分後退り距離をとった。

突然のことにボリスは戸惑い目を見開く。

よく見れば、ユーリはまるで涙を堪えるかのように顔を歪めていて、破れた服から覗く白い肌には、彼が父親からの暴力によって負うような傷とはまた違う傷や痣のようなものが見て取れた。

 

「ユーリ!お前、一体何があったんだ!?」

はっとして思わず、昨日ユーリが何をしていたのかを問い詰める。だがユーリはその問いには答えず、黙って俯いたままそっとポケットから一枚の板チョコレートを取り出してボリスの目の前に置くと、それまできつく握り締めていた片手を解き、板チョコの無意味に明るい色の絵が印刷された包み紙の上に幾許かのコインをそっと積み重ねた。

その時のユーリの表情はあまりにも辛く苦しそうで。ボリスはそれ以上何も言えなかった。

 

 

 

+++

 

それからというもの、ユーリは決まって満月の夜だけはボリスの前に姿を見せなくなった。

ユーリが一体何をしているか、否、されているかは勿論ボリスも感づいていた。だが、それを知ったところでどうして止められよう。

ユーリが満月の翌日、大切そうに、しかしそれ以上に辛そうに目を伏せて、小さな手に握り締めて持ってくる僅かな枚数のコインと、一枚のチョコレート。それが、死と隣り合わせの恐怖に震える彼らの命を繋いでいたのだから。

盗みだけで生きていくには限界がある。彼らはただ、生きるために必死だった。

 

 

 

+++

 

今宵も、空にまるい月が昇る。いったいあれから何度、満月の夜を過ごしたのだろう。

彼らがどんなに苦しもうと、空から射す光はどこまでもやさしげで。

その姿を遠く近い空に見ていると、ふいに、ぶちまけようの無い苛立ちが、吐き出しようのない無力感が、ぞわり、とボリスの身体を駆け巡り、心を掻き乱す。

今頃、彼は――

 

彼はその光から逃げるかのように、理由もなく街を走り抜けた。

 

走って、走って、走り続けて。

何処まで行っても何も状況は変わらない。そんなことは分かっている。

けれど、今はただ、走らずにはいられなかった。

 

 

 

+++

 

いったいどれほど走りつづけたことだろう。これだけ遠くに来たつもりでも、そこは未だ彼の見知った街の中で。

 

少年は喉が渇いていた。そして、腹をすかせていた。ふと、近くの店先に置かれた小さな林檎が目に入る。

いける。そう思った瞬間、彼の足は地を蹴り、その手を小さな果実へと伸ばしていた。

数秒遅れて響く怒声と足音をしながら、掠め取った林檎を手に、路地から路地へと身を踊らせる。建物と建物の僅かな隙間を右へ左へと、いったい何回曲がったのだろう。

ここまで来れば大丈夫、そう思って、最後に逃げ込んだ路地の奥でボリスが見たものは、二つの人影だった。

 

いったい彼らは何をしているのだろう、手前の影が動く度にその奥で赤い髪が小さく震え、月の光を受けて儚げに煌めく。

まるで時が止まったようだった。目の前に白いベールがかかったようで。何も考えられず、何も聞こえない。考えたくない、聞きたくない。そうだ、今日は満月だ、そんなことは分かっている。俺達は死にたくないんだ、当たり前だろう。

ボリスは、釘で地に足が打ち付けられたかのようにその場から一歩も動けなかった。

どうすればいいのか分からず、立ち尽くす。少年は斯くも無力であった。

そんな彼の耳に突然、声が、まるで直ぐ隣から聞こえたかのように、鮮明に飛び込んでくる。

痛い、と。嫌だ、と。

上擦って少し掠れた、まだ幼さの残るその声は、まごうこと無く、彼と共に明日を生きようともがく赤毛の少年のもので。

その声を耳にした瞬間、ボリスの中で何かが弾けた。

彼自身にすら、その刹那の記憶を思い出すことは出来ないだろう。気付けば彼は、ただ、言葉にならない叫び声をあげながら、無我夢中で赤毛に重なるもう一つの人影にナイフを突き立てていた。

 

何度も何度も、彼はその胸の奥からとめどなく込み上げる、鋭い痛みや渦巻く怒りに突き動かされるままに、刃を振るい続ける。その一方的な行為は、目の前の人間が完全に動かなくなるまで続いた。

 

目の中に血でも入ったのだろうか、視界が滲み、ぼやける。頬を熱いものが伝っていくのを皮膚で感じながら、ボリスは既に単なる肉塊と化したそれのポケットから財布を抜き取った。だが、その中に入っていたのは、人を殺めるという大罪にはとても見合わないようなちんけな量の金属片と紙屑、そして一枚のチョコレートだけで。こんなものの為に、と胸が苦しくなった。

ふと、り泣くような声を聞き、ゆっくりと赤毛の少年のほうを見る。伏せた瞳から零れた雫が銀色に煌めきながら頬を伝う姿は何処までも清らかで。きちんと向き合わなければ、と思っても、どうしても今のボリスには、穢れなく涙を流すユーリと目を合わせることが出来なかった。

 

二人の間に、長い沈黙が続く。

頭の中では様々な言葉が渦巻き、浮かんでは消えることを幾度も繰り返すばかりで。

お互い、何も言えなかった。

何を言えば良いのか分からなかった。

 

ただ、二人は飢えていた。明日を生きようと、このちっぽけな街の底辺で懸命にもがき続けていた。

お互い黙ったままで、目を伏せたままで、彼らは、先程ボリスが盗んだ小さな林檎を分け合う。

いびつに歪んだ球を描く、まだ熟しきれていないその果実は、みずみずしくも苦く、やりきれない切なさとともに、彼らを僅かながら満たした。

 

 

 

 

End*

 

 

2010.06.20 ベイオンリー発行

 

 

はじめての同人誌です。

もう全力で目を覆いたくなるんですけど、

記念に置いときます。

 

まさか2017年にコロアニや先生のサイトで

あんなにも供給があるなんて思いませんでしたね

ボユリ幸せになってほしい…